亡くなった後、人はどうなるのか、霊や輪廻は存在するのか?
亡くなった後に人はどうなるのか、というのは今生きている人にはわからず、現代の科学では証明もできない、大きな謎の一つです。
亡くなったら「無」であり、それで終わり、と考える方もいるでしょう。
いやいや、亡くなってからも輪廻がある、何なら前世もある、だから魂が存在する、という考え方もあるでしょう。
私は過去に祖父母などを亡くしていますが、今回メンターとの突然の別れを経験して、また会いたい、という想いから、このことをとてもよく考えるようになりました。
いくら考えても正解はない(正解がわからない)問題で、ちまたに色々な本は溢れているものの、根拠がある、証明ができるものもないので、結局は自分なりの「答え」を見つけるしかないので大変です。
輪廻や転生があるかはさておき、もう一度話せる機会がほしい。できれば現世の「私」としてもう一度話がしたい。
これは大切な人との別れを経験した、多くの方が願うことかなと思います。
とはいえ、私の願う「(何らかの形で)再会がある」為には、「魂」がある、「輪廻転生がある」ということを信じる(信じられる)必要があります。
ぱっと信じられる人、もしくはもともとそういう世界がある!と信じていた人はいいなぁと思うのですが、私は違いました。
今までそんなことを深く考えてこなかったし、いきなりそれを信じろ、と言われても、私自身が見えるわけでもないので、結局あれこれ本を読んだり、ネット記事を読んだりして、自分の中の猜疑心と闘うことになりました。(結構疑り深いので、自分で自分を持て余して大変でした笑)
今回はその猜疑心と闘った、私なりの考えを残しておこうと思います。
同じように、輪廻や転生、魂の存在を信じたい(そして再会できると思いたい)けど、心の底からは信じられないから苦しい…とぐるぐる悩んでいる方の助けになって、少しでも心が軽くなれば幸いです。
私の場合、一つ信じられるきっかけになったのは、実は家族に「少し視える人」がいたことでした。
ちまたの霊能者が視える、とかきいても結局は知らない人。嘘かもしれない。
それこそ子供の頃は、何となく視えたらかっこいい?!みたいなところから、ついそう言っちゃう子っていますよね笑
私の家族は、今回のことが起きる前から、視えたり、聞こえたりする人でした。
とはいえ、いつも視えているわけでもなく、会話ができるとか、そういうものでもなく。たまに人や黒い影が視えたり、聞こえるのも、声だとかではなく、バタバタ走る音だったり、謎に鈴の音だったり…。
ちなみに、家族がそういう話をしてくれるなかで、なるほどなーと思ったことの一つに、「何か霊が視えたからと言って、TVの階段話みたいに、必ずしもオチがあるわけではない、オチがない方が本物っぽいと感じる」ということでした。
怪奇現象が起こると、後からここで誰かが亡くなったことがわかって…というのはTVの怪談話ではあるあるの流れですが、家族の話は、あそこに人が視えた、以上。みたいなことでしかないのです。
夜、二人で散歩をしていると、なんかちょっと嫌な感じがする、でも私には何も視えない。
そんな時に、一緒にいた家族には、こっちを視ている人影が視えていた、というような具合です。
そんなことが度々あるので、私にとって「視える人がいる」というのは、たとえ自分が視えなくても、そういう人もいるのね、とすんなり信じられることだった、というのは大きな助けでした。
魂や輪廻について信じたい…けど、心の奥底から信じられずに苦しい…みたいな人は、まず第一段階として「視える人はいる」ということを信じられるようになるのが大事かなと思います。
私は家族のお陰で、人より目がいい人、耳がよく聴こえる人(音は特に若いころには聞こえて、徐々に聞こえなくなる音がありますしね)、鼻がきく人…そういうもののなかに、視える人がいる、というのは比較的簡単に信じられました。
ちなみに家族の場合は、いつも視えるわけではなく、ラジオの周波数のように、何かタイミングとかがあった時に視えたり聞こえたりする、という感覚だそうですが…。
視える人が見ているのが、魂なのか、残留思念なのか、それはわかりませんが、自分が見えてる世界が全てではない、そういう人もいる。
更に言うと、同じものを見ていても、その視え方がよりくっきり視える人もいるし、ぼんやりとしか視えない人もいる…というのも、家族との経験で信じられることでした。(この経験についてはまたの機会に書こうかと思います)
その上で、次の段階に進むきっかけになったのは、昨日書いている、以下の記事になります。
direction-fujip.hatenablog.com
少しずつ、色々な体験して自分の中でたまっていく経験から、結果的に少しずつ信じられるようになりつつある(今も進行形です)といった感じです。